「町のシンクタンク ラボラトリ文鳥」にとって、地域コミュニティのありかたの模索は関心のひとつです。第1回のコミュニティ研究会では、3人ほどが集まり、それぞれの関心のありかたを話してから、この研究会のテーマを決めました。テーマは「違う意見を歓迎できるような『おとなりさん』になるには、どうすればいいか」になりました。以下、当日の話題を紹介します。
徳島県の東みよし町について報告しました
参加者のひとりが、大学院の研修で徳島県の東みよし町を訪問したことについて、話してくれました。この地域では、過疎化が進むなかでも地域の魅力を鮮やかに打ち出し、フィールドワークや地域事業が活発に勧められてきました。研修では、世界農業遺産に登録されている斜面での農業や、町の人々の良心を象徴しているような大きなクスノキなど、その土地ならではの個性を見学しました。
なかでも印象に残ったのは、住民のみなさんの好奇心と探究心の強さ。外からの訪問客に対しても、率直に議論をしてくれる態度から感じ取ったものでした。東みよし町のみなさんのあいだでは、意見が違うということが歓迎されていて、相手とのやりとりによって自分の「当たり前」が揺さぶられることを楽しむ態度があるようでした。
人には、当たり前のこととして受け入れている価値観や言葉の意味があり、立場によってその前提が大きく違うと、意見が対立することもあるでしょう。対立しそうなときは、当たり障りのない話題を探したり、自分の価値観に都合の良いことばかりに反応したりしてしまいがちです。一見、フレンドリーでなめらかな会話だとしても、自己正当化と持論の証拠集めのためだけのコミュニケーションに陥ってしまうことについて、この参加者はもともと問題意識があったそうです。
この研修の詳しい内容については、別の学生によって書かれた、こちらの報告文をごらんください。<東京大学大学院IHSイベント報告>
次に「中間集団」 について話しました
社会人向けに学問の紹介をしているトイビトに掲載された記事「中間集団の解体は何をもたらしたか」について話しました。「中間集団」とは、とても簡単に言えば、衣食住を共にする家族よりも大きく、日本社会よりも小さい規模のコミュニティのことです。「ムラ社会」と呼ばれる地縁などが例として挙げられます。筆者の石田 光規教授(早稲田大学)は、現代社会の孤立をテーマに人間関係論を専門として研究しているひとです。
「中間集団」は、近代化のなかで解体されてきたと言われていますが(参照)、この記事が注目しているのは、とりわけ日本社会における「中間集団」の変容と衰退です。高度経済成長期、人びとは都市部へと移動し、血縁や地縁という従来の集団から離れましたが、その代わりに企業による長期的な雇用によって生活基盤が保障されていました。しかし、バブル崩壊後の1990年代頃から、雇用形態は流動的なものとなり、人々は企業からも引き離されてしまいます。この記事は、中間集団に属さずに「むきだしの個人」として生きることを余儀なくされているという現状を指摘しているのです。いま、人々は「お互いがその関係に満足している間だけ維持される」「純粋な関係」しか持っていません。「縁」が、本人の意志に依らない漠然とした関係性だとすれば、「純粋な関係」とは、むしろ本人の意志だけに根拠があるような人間関係を指す言葉です。
「経済合理性」の価値観ばかりを物事の判断の基準にせず、それとは別の尺度で人と人のつながりを作ることはどのように可能なのか、この記事は大きな課題を投げかけています。
結束力と柔軟性を両立するコミュニティを目指して
魅力的なコミュニティには、結束力と柔軟性の両方が共存しているのではないか…話していくうちにそんな仮説を共有しました。ここで言う結束力とは、生活を助け合うような親密な信頼関係のこと、そして柔軟性とは「当たり前」としていることが大きく異なることを受け入れて、お互いの違いについて相談し、自分の言動を工夫できるような態度のことです。誰かと仲良くなるとき、その理由は、相手と自分が同じ出自だったり似ている考え方を持っていたりするからだということがよくあります。でも、そういった同質性や類似性に頼らないような結束力を模索できないものでしょうか。価値観や考え方が違うからこその信頼関係とはどんなものでしょうか。
本研究会では「何かがうまくいっていないという現状の理解について、人びとのあいだで合意を生むこと」に注目することにしました。例えば、ある親子がうまくいっていないとき、問題があると思っているのがどちらか片方だけの場合と、お互いに仲が悪いという現状理解を共有できている場合とでは大きな違いがありそうです。
さらに、もうひとつ注目したいヒントとして、「おとなりさん」という、よそ者じゃないけど身内でもない存在の可能性についても話しました。自分と違う意見を言われても、それを攻撃と受け取らずに、知的刺激として歓迎できるような関係を結んでいる、そんな人のことを、仮に「おとなりさん」と呼んでみて、考えを深めていくことになりました。
「違う意見を歓迎できるような『おとなりさん』」の関係づくり、座学と実践の両方で探究することになりそうです。
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